昭和43年08月17日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
お道の信心は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるそういう道だと。ですから人間が真実、幸せになっていく道をもう根限り、あらゆる角度から解きに解き明かしてあるのが、教祖様の天地の親神様から受けられた御教えであり、またご自身が体得された信心であります。ですからどうでも話を聞かなければおかげになりませんね。けれどもここではその、話を聞くだけが能ではないとおおせられるね。お道の信心は話を聞いて助かるのだと。
話を聞いて人間真実幸せになっていく道を教えて頂くんだとね。だからと言うてその話を聞くだけでは、話を聞けば助かると言うのではなくて、話を聞くと言う事がですね、聞くだけが能ではないね。わが心からも練り出すと言う事はね、聞いた話を自分のものに素直にしていかにゃいけんと言う事。素直に頂いた御教えというものを生活の上に現していく、自分の心がけの上に現していくね。
改まりの上に改まり、磨くうえに磨いていくところの、言わば磨き方であり改まり方であり、そのあり方を話しにして聞かせて頂く。同時に神様の深い深いお心も聞かして頂く。人間として神様としての関係というかね、係わり合いと言う事についても話を聞かなければ分からないお話が沢山、御教えの中にはございます。それでわが心からも練り出すがよいとね。今朝の御理解はどうだったかと、もう家では待ち受けておるような家庭も合楽で段々出来て来た。
朝皆さんが代表で例えばお参りをなさる。もう帰って待ちうけておるように皆が朝の御理解を頂かれる、朝ができん時には夜にでもというふうにその話を聞いて、そして家族で練り合われるね。また家族でお参りをさして頂いて、家族でお話を頂いて、今日のお話をどこを頂いたか、あんたはどう頂いたかというふうにして、まあ信心共励を家族の中ででも、信者友達の中でもなさるね。
ここで午後からゆっくり参って来る方達は皆そうである。テープを聞かして頂きながらね、3人寄れば5人、5人寄れば10人で今日の御理解をまあいろいろ、共励し合うておられますね。そういうことが大事なんだ。練り合わなければ。今日の御理解は私はこう頂いたが、あんたはどう頂いたかとより本当なことを分からして頂いて、分かるだけではない、分かったことを自分の生活の上に現していこうと。
同時に私は思う。その聞いたお話を本気で行ずる気になりますとね、そこからねそこから教えてもらうものがあるのです。いわゆる仕事が仕事を教えるというのはそれですね。本気で御教えを行じていくとです、そこからまた分からないところが出てきたり、はあこの御教えはこう言う様な事だったんだなとまだ聞いた事もないその話をヒントとしてです、次のことが分からして頂くのですね。
ですからなるほど話を聞くだけではいかん、聞いたら守らなければいかん、守らして頂くところから自ずと練りだされてくる。翻然としたものができてくる。だからいよいよ自分の心も開けるに開け、いよいよおかげもね、おかげの上にまたおかげが頂けていくというね、いわゆる末広がりのおかげが約束されるわけである。何十年信心しよりますがと言った様なものではない。
まあそう言う様な事をここでは教えておられるのだと思うのですけれどもね、私はこの41節から今日、私は感じられることね、この41節から教えられることね、思わせて頂けれること。そんなことを聞いて頂きたいと思うね。この41節は今私が申しましたように、練り出すと言う事。金光様の御信心はどこまでも話を聞いて助かる。そこで私はここから思われることなんですけれどもね。「信心は話を聞くだけが能ではない」と言う所をですね、信心は金光様の御信心はです。
ただ「お参りするだけが能ではない」というふうに私は言わば感じます。お参りするだけが能ではない。私の知った人にもう亡くなられましたけれども、何十年間も毎日お参りをされる方がある。そら私は知っておる。そしてお参りされたらもう芯から拝まれるね。それだけ芯から打ち込んで拝まれるから、話を聞かれよるかというと話は全然聞かれてない。一生懸命拝むだけ拝んだら、親先生がお話をなさろうとしてもお話を聞こうとしない。あんな人があるけんがちゅってから親先生が時折その人の事を言われる。
もう先代の時分から御神縁を頂いておられる方であった。もう参るとは真剣に参った。それこそカラスの鳴かない日はあっても、このおばあさんが教会にお参りされないと言う事はまずないと言う様なお参りができるおかた。ところがお参りをするだけ拝むだけ。そして話を聞こうとはしない。それかと思うとですねもうとにかくお参りさして頂いて、お話を頂くとが楽しみと言うて参って来る人があるね。もう特に合楽にはそれが多いね。親先生のお話を頂かせてもらうとがもう楽しみ。ところがですね。
おかげを受けていっておるけれども、段々おかげが受けられなくなっていくと、まあ当たり前のようになって、お話を頂くことが有り難いとは有り難いだろうけれども、おかげがおかげに進展していかないところを見るとですね、いわゆる話を聞くだけで行の上に現われていない、改まりということにひとつも現れていきよらん。ただ聞くだけだと。だから耳だけは肥えてくる。はあもう先生がお話になると、はあ次にあげなこと言いなさるばいなということが分かるぐらいに、巧者、聞き巧者になっておる。
ところがおかげが立たないね。また信心は修行するだけが能ではないとも私は頂けれる。修行するだけが能ではない、話を聞くだけが能ではない。信心は金光様の御信心はただお参りさえする、お参りだけが能ではないとも言う。お参りすることも信心。お話を聞くことも信心ね。修行さして頂くことも信心。お参りもせんならん修行もせんならん、お話も頂かなならん。もうこれじゃあもうちょっと息抜く暇もなか。ところが信心とはそういうものでもないね。遊びに行くこともいい。
お芝居見に行くこともいいね。今日海水浴に行くこともよい、明日温泉に行くこともよいね。だからその三つがあってもその三つだけが、なら能ではないと言う事にもなるのですね。話を聞くとかね、お参りをするとかね、修行をするとかと。ならこの三つができたからと言うて、この三つだけではない。その中にはね楽をすることも言わば、遊ばして頂くことも、楽しい思いをさして頂くことも、私は入っているんですね。
問題はそういう中に信心がね、日頃練りだされていくところの信心。またいや遊ぶことの中からでも練りだしていくことのできるのがお道の信心。だからひとつも窮屈ではないね。言うならばあるがままに、なるがままにの中に聞き、守り行じていくというのであるね。そのあるがままに、なるがままにのところをです、自分であろうとする。自分でなろうとする。ここに問題があるね。あるがままになるがままにね。自分であああろうとする、自分でこうなろうとする。
そこに無理があり不自然が重なって、不自然なことになってくるね。今日はこの41節から思われること。または感じられること。言うならこの御理解の余韻である。皆さんも名前を言やあご承知でしょうけれども、はばかりますけれどもね、まあ熱心なご信者さん。非常にその、非常に理解力がある。お話をもう本当によう分かる、そして本当によく守る。もう私は感心この人が参って来て、ここでお届け聞きよるとですね、ほんなこてこの人はようでけとるとこう思うんです私いつも。
それを行の上に現していくわけですね、頂いたお話言わば信心をもとにして、家庭信心生活が出来るのですね。本当におかげを頂きます。女手ひとつでようここまでやれるもんだと。子供達もそれぞれにまあ最高の学問をさせたり、就職をさせたり主人もおりません中にですよね。仕事の上にも精を出さしてもらうし、嫁との仲も親との仲も、子供との仲も信心でいくから実にスムーズにいくんですね。ところがこの人はその、お参りをようしてこんのです。月のうち何回かしか。
そして日参りお参りする人達が、あなた達のごとそげん参るこつばっかり参ったっちゃどうするですかっち。私だんお参りせんばってん、こげなおかげ頂きよると言うて、本当におかげ頂いておる話をする。だからほんなことそれがほんなこっちゃなかじゃろうかと思うぐらいにあるね。話がよう分かる理解力がある。そしてそれを身をもって行ずるです。もう実によく働くね。子供との仲も嫁との仲も、また親がおられるが親との仲も、言わば信心でいくわけなんです。
商売も面白ういくし、子供達も本当にあの、素直によく育っていきますね。ちゃんと年に一遍宅祭りもしますね。ところがそのお参りはしてこん。むしろお参りをする信心友達のことをね、ああた達のごたることは出来んね。あなた達のごとそげんお参りせんでんおかげ受けられる。私を見なさいと言わんばかりにその話しよる。話も上手です。けどそれではいけん。亡くなりました主人の御霊様がですね、毎月のようにですね、お参りしよらんとお参りをしむける。
お参りをすることをすすめるそうです。私これ余談ですけれども、お道の信心特に合楽でおかげを頂いてですね、亡くなられた御霊様達の働きというものをですね、最近感じんわけにはいけないことがあります。もう確かにね私共が信心して徳を積んで、あの世に行ってですね、かわいい子供やら孫の上にこんなにまで働きができると言う事をですね、もう本当に私は感じますですね。
今のその話しておりますそこの主人もそうです。亡くなりましたけれども、家族中の者の信心が疎かになってくると、ここ2、3ヶ月はですね、お参りせんもんじゃから、月々その、御造営費をこれだけというてお知らせを頂いている。今月は御造営費はまだお供えしちゃなかじゃろうが。という夕べはお夢を頂きましたけんでちゅってから、お参りしてくるわけです。御造営費を持ってね。ところがですね、御霊の働きも神様の働きもですね、そういつまでもは続かん、こちらの受け心がないとね。
再三注意をするけれども、それを一向聞こうともしない。結局その信心ちゃ話を、例えば頂いてこれだと思うことを生活に現してさえいきゃあいい。そして時々お参りすりゃあそれでよかと思い込んでおる。なるほどそれでおかげの受けられる時代もある。今日のここにはね、話を聞くだけが能ではない、なら話を聞くだけでおかげを頂く時代もある。ただ、お参りするだけが能ではない。何日もこうしてお参りをしてくる、お参りをするだけでおかげを頂くこともね、間違いはないの。
お参りをするだけでおかげを頂いていくけれども、しかしそれがいつまでもは続かんのです。そこで練り出すことが必要になってくるね。それは分からないから、お参りするだけでもおかげ頂く。けれどもそのいつまでもはない、神様が育てようとする働きがあるからですよね。最近それこそ得体の知れない病気になっておる。まだ若い現在病院に入院しておるね。それこそもう本当に時間が惜しゅうして惜しゅうしてたまらんぐらいに働いておるのですけれども、さあ病気には勝てないでしょうがね。
そこから問題がですまた次々と起こってくる。そこから嫁との仲もよかったばってん嫁とのこと息子のこと、子供達の上にも様々な問題が起きて来る、困った問題がね。だからこれでよいと言う事じゃないね。話を聞くだけじゃいけん。お参りするだけじゃいけん、ただこげな修行しよるけんて修行だけじゃいけん。これもやっぱり熱心なここのご信者ですけれども、非常によく修行ができる。この人もなかなか日々の家業の上に、もうそれが修行として現していくという、もう実に堅実な信心をしておりますね。
ですけれどもお参りは月次祭だけでよかとこういうふうに決めている。なるほどおかげを受けます。本当に仕事の上にも本当におかげを受けておりますね。言うなら御用もできておりますね。ところがですね、御用頂くだけが能ではないね。私から見るとお気付けを頂きよる。けれども本人はまだ気がつかないね。ですからどうしても私は信心にはね。修行するだけが能ではない話を聞くだけが能ではない、お参りするだけが能ではない、修行するだけが能ではないね。
それのどれもが足ろわないけんと言う事。そんならそれが全部そげんせにゃんなら大事っちゅうことはなかね。今も申しますけれどもね。お芝居を観ることもよし海水浴に行くこともよいね。まあ言うなら昼寝をすることもよい。ですからね但しね、そこのところがお参りをさして頂いて、お話を頂いて修行をさして頂いてね。そこから練りだされてくるところの、その余波というものによって生活をしていけというのである。そこにはねあるものはあるがままに、なるがままにである。もう実に楽なんです。
だから信心の稽古と言う事はそこんところを稽古していくんだ。それを私が今いくらね信心とはね、話を聞くだけが能ではないとか、お参りするだけが能ではないとかという、そこんところを分かって、そこんところを頂いていきながらですね。そこんところを頂いていきながらね、全てのことにいわゆる何事にも信心になると言う事。そこからいわゆるあるがままになるがままにというあり方にならしてもらう。神様に逆らいがないね。自然への抵抗がない。
ここにです信心頂いていく者、日々信心修行さして頂きよる者のね、楽しみと喜びがここにあるわけね。それを私共が自分でなろうとするね。自分であろうとする。これはお参りをせずに信心ができておっても、修行ができておっても、自分でああしよう自分でこうしようとしておる。ならそこんところを願うていきよるですね。今日私がここの信者の中の例を申しました、今日最後に申しました人なんかもそうです。お参りは月次祭だけでよかというぐらいに思うておる。
御用さえできりゃよかと思うておる。そしてそこから生まれてくるものはあるがままにとかなるがままにといったような、お道の信心の本当の神髄には触れられないで、自分がああありたいと言う事を修行して、あぁあるとそれだけでおかげと思うておる。だからこれでは小さいですね。いわゆる自分の一握りは自分の一握りなんです。私いつも言う様にね人間の一握りとはこうなんだ。自分であろう自分でなろうというのはこの自分の一握りと同じことなんだね。
神様の一握りと言やあどれだけあるやら分からんというおかげに触れていく、おかげを頂くためにはですね、自分でやろう、自分でなろうと言う様な事からは生まれてこないってね。それで結構おかげを受けておる。例えば私もそのことを少し、後で悪く言うたんですけれども、神ながらなことなんです。けれども私はあまりにも常識がなさすぎるって、私は松栄会の方たちがこの頃から信心実習会でした。ちょうど福岡の月次祭ですから、12日の日ね。それが皆商売人ばっかりでしょう。
会長の清さんにしろ堤清さんにしろね、麻生さんにしろ、嘉朗さんにしろ、石井信司さんにしろ、もう商売にとって盆の12日といった日は、こらもう大変な日なんです。私が商売人だからよう知っている。それに例えば信心の実習に例えば名を借りて、海水浴に行くとこんなんてん言うちから、もう決めちからお届けに来たから私はその時言わなかったけども、帰ってからそれを言うんです。
あんたどん馬鹿じゃなかのとね、さあ松栄会の方たちがあの会を発足する時に、この松栄会という会に加入参加さして頂く限りね。本当に若先生を中心にしてね、若先生のまあ手にもなろう足にもなろう、将来はこの教会を背負うて立たせて頂くほどの信心にもお育て頂こうというのが願い。それには普通のような信心ではいけない。
まあ言うならばあの飛行機から落下傘をかかえて、飛び降りるくらいな勇気がなかにゃいけないというのが、この発会の時のそれでした、御理解でしたね。ですからそういういわゆるメンバーなんですよね。ですからもう盆の忙しい、(?)忙しい時だけれども、こと若先生を中心にしてから、信心実習に行くのであるから、やっぱりやらせて頂くことの方が信心だというふうに、まあ言うなら落下傘をかかえて、飛び降りるような気持ちで皆、着いて行く。
ちがわんもう若先生が遊び好きじゃけんで、あれが思い立ったんじゃろうっちゅって私が(笑)、やかましゅう言うね。それでもやっぱ結構やりぬけてきてるそれでも。特にあのむつやの信司さんなんかは、もう僕は今日は大修行ちゅってから行ったっちゅう。もうそこが本当に有り難いと思うですね。やっぱり遊びの方へ遊び方っち言うか、信心実習の方へ行ったんです。
ところがですね、自分がおってからの働きぐらいなことではない、働きが店の上に起こっておることに、もう本人も感じておるでしょうけれども、まあ若いけども社長です。社長がおらんでも結構、それこそ今までにかつてない、集金なら集金のことでも、それこそあの長年の呉服屋さん生活の中で、今年くらい素晴らしい集金の寄りがあったことがなかったっちゅうてござるね。ここんにきがですねもう本当にもう理外の理ですよ、理屈じゃないですね。
これは信司さんだけじゃありません、皆やっぱおかげを受けております。ちょっと横道になりましたけれどもね、これはね信心の世界と言うのはもうそういう不思議な事ですから人間の小さい一握りと言う様な、例えば私が先に例を出しました人なんかはね。先に出した人なんかは、もう絶対そういう時には店の方を守る事が信心だと思い込んどるね。月次祭だけしか参って来んという人、この人なんです。そして一生懸命修行も出来る、御用も出来るね。
そういう例えば落下傘を抱いて飛び降りる位な、勇気がないこの人には。そしてそれはお店の方を大事にする、仕事の方を大事にする事が信心だというふうに思うておる。だからそう思うておるから、思うておる中におかげは受けるけれどもそれは自分の思いであるからです。自分の一握りしかおかげは受けられんて是ではね。そこんところを突破するというかね、そういう信心からそれこそ夢にも思わなかったというか、とても想像もし得なかったような商売の上でも成績が上がってくると言う様なおかげはです。
本当にそこんところを神様を中心にした所の生き方にならなきゃだめですね。信心は話を聞くだけが能ではないと。と言う事の御理解をですね、今日は頂きました。そしてこの41節から感じられること思われることね。その様な事をまあ申しましたですね。そして、私共がこの御教えの中から本当のおかげの受けられるね。そこで例えばなら次の42節を少し、なら見てみましょうか。「これほど信心するのに、どうしてこう言う事が出来るであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。
これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」とありますね。ですからですよ、例えばお参りだけでよかと思うておる人ね。修行だけでよかと思うておる人。話を聞くだけでよかと思うておる人がおかげを受けてきた。けれども信心しておるのにどうしてこの様なと。ここになにか行き詰まる。例えば病気しとるなら一向良くならん、これから上はいっちょん良うならんてね。
今までこげん順調じゃったのにどうしてこげな、言わばなら病院に入院せなならんようなことが起こってきたんですね。まあ先ほど申しました例から言うと。ですからここでひとつですね、これはどうしたことであろうかと思わずに、自分の信心が足りぬからだと自分の足りないところに、出て行くところの信心が、ここにのぞまれておるわけですね。だから自分な修行しよるばっかりじゃなかろうか、ただお参りしよるばっかりじゃなかろうか、ただ話を聞いておるだけではなかろうかね。
ただなら自分な御用、信心は御用なりと言うて、御用だけで済んだ様に思うておるのではなかろうかね。御用が出来ておらん者なら、御用さしてもろうてみるがいい。お参りができてない人はいっちょお参りを始めてみるがいい。話を聞いてない人は本気で話を聞いてみるがいいね。はあ自分な話を聞くだけで、いっちょん行には現しておらんというならば、本気でひとつ現して行く事にね、そこから一心の信心をしていけばと言う事は、そう言う事なんだね。
その自分に欠けておるそこんところをもういっちょ、信心に精進さして頂く所のおかげを頂かせて頂いてですね。お道の信心のまあ言うなら完璧とでも申しましょうか、まあ完璧という言葉は人間じゃ使える事じゃございませんけれどもですね。大体そのような信心がなされてね、お参りお話を頂くそれをよく守るね。修行精神も旺盛。それでいて日々生活の中にはですね。いわゆる遊びもあってよいと言う事。
けれどもそこんところがです自分でなろう、自分であろうと言う様な思いが段々なくなっていって。いわゆるあるがままに、なるがままにの、もう何とも言えん、もう楽な楽な信心生活がそこから頂けれるね。そこから言わば神の一握りと仰るようなおかげが頂けてくることを私は確信しておりますね。今日の御理解の中からですね、41節の御理解から思われること、感じられること。そんなことを聞いて頂いたですね。
どうぞ。